担当入居者とのお話〜負のスパイラル〜

50名の方が住んでいる僕の働くホーム。

その内の3名の方を担当させていただいていて、その内の一人、緑川さん(仮名)とのお話。

 

もともと人と関わることをあまり好まれない。

居室で一人、食事を摂られたりTVを観て過ごされるのを好まれる方だった。年末に外出先で転倒事故を起こし、それを機に歩くことが困難となり、車椅子での生活を余儀なくされた。また、同じ時期にご兄弟を亡くし、精神的なダメージを負った。その頃から「寂しい」をよく口にするようになった。

 

あれだけ居室で過ごしたいと仰っていた人が、人と過ごしたいと吐露した。

プレイルームに入居者と交じり、折り紙を折ったり、昼寝をしたり、スタッフと話したりする光景は異様なものだった。…あの緑川さんが。プレイルームにスタッフがいないと、大声で「誰か!助けて!」と叫ぶ。それにスタッフは手を焼いていた。プレイルームは、より忙しくなった。

 

次第にエスカレートしていき、入居者の愚痴を言うようになった。

「あのババァは、何だか偉そうだね。」「あの人が私のこと指さしたよ!嫌だね!」

緑川さん自身、少しずつ変化していく自身の体と気持ちに混乱していたのかもしれない。涙ながら「私はこのホームに、ふさわしくないよ。」と呟いていた時もあった。

 

僕は居室担当として、主様の気持ちに十分に寄り添えていないように感じていた。

前回までの居室担当の名前が出ると、「そういえば最近顔を見ないね」「いつもお世話になっていたんだよ」と思い出話に花が咲く。偉大な先輩だ。これだけ、緑川さんから話が出てくるのだから。僕はただ「傾聴する」、それだけが緑川さんへできるアプローチだったように思う。自分の無能さを痛感した。

 

8月中旬、緑川さんは風邪をひいて以来、寝たきりの状態になった。

食事が喉を通らない。水分と栄養剤のみで一日をしのぐ。「寂しい」がより増したのか、ナースコールが頻回になる。最上階の一番奥の部屋。忙しい時間帯は、訪室するのに時間が掛かった。PHSが鳴り、取ってみると「誰か!助けて!」と叫びながら、ガンガンと何かぶつかる音が聞こえた。どうやらナースコールをサイドレールにぶつけていたらしい。そのせいで、そのナースコールはこちら側の声をキャッチできず、聞こえていなかった。「大丈夫ですよ」「今向かいますからね」とPHS越しに声をかけても、緑川さんには届かない。ナースコールは、緑川さんの声をスタッフのPHSに届ける、ただのマイクと化していた。交換しても、サイドレールにぶつけることを止められないようで、すぐに壊わしてしまう。

 

「緑川さん。来ましたよ!僕が誰だかわかりますか?」

「あぁ!石井くん!」

「違います!」

「山本くん?」

「んー。違います!」

「んー。誰だろう。」

「緑川さんの担当の馬場です。」

「馬場か!会いたかったよ。」

「もう!そろそろ顔覚えてくださいね!」

いつものお決まりの会話。握手した後に、指相撲するのはいつの間にかお約束になっていた。僕が負けると「まだまだね。」と笑われる。

 

食事がまともに喉に通らなくなり一週間が経とうとしていた。熱は引いていたが、体が思うように動かないらしい。トイレに行くことも困難で、主様自身も望まれていなかったため、リハビリパンツとパットを購入し、それを着用していた。顔は随分と痩せてしまった。

 

「緑川さん。甘い飲み物持ってきたんですけど、飲みます?」

甘い飲み物という名の栄養剤。

「飲む!ちょうど喉が渇いていたの。」

「じゃあ、少し座ってみましょうか。僕につかまって?ゆっくりで大丈夫ですから。」

テーブルには吸い飲みが置いてあったが、極力自分が関わるときは体を動かす機会を設けたい。断られるときは、何が何でも断り続けるが、素直な時はとても素直な主様。

ベッドに端坐位になって、ゆっくりとコップに手を絡ませていく。一緒に口元までもっていく。

「…美味しい!!」

何とも言い難い顔で、叫ばれる。少しずつではあるが、確実に飲み込んでいく。

「もういい!!」

からっぽのコップを僕に差し出すと

「横になりたい!!」

そう言って、自分から足をベッドへと戻していく。

「頑張りましたね、緑川さん。」

 

テーブルの上には、緑川さんの好きそうなおやつと飲み物がたくさん置いてある。

どれも食べかけで、少ししか減っていない。

 

「緑川さん。また遊びに来ますね。」

「ダメ!!行かないで!!」

「ごめんなさい。他の方の対応に行かなくちゃいけないんです。また必ず来ますから。」

「嫌!!ここにいて!!」

必死な懇願。この世の終わりと言わんばかりの叫び。

僕は、「緑川さん」と一言、ぎゅっと握っていた手をさらに強く握り返し、じっと目を見つめる。

「必ず、来ます。その時に、また、たくさんお話ししましょう。」

そう伝えると、緑川さんの手から、ふっと力が抜けるのを知っている。

「待ってるよ。」そう呟く緑川さんは、どこか所在なさげだ。

 

部屋を出ると扉越しに

緑川さんが僕の名前を叫んでいた。

 

業務に戻るが、すぐにPHSが鳴った。

スピーカーからは、ガンガンと金属を叩く音と共に「誰か!!!助けて!!!」という音が聞こえる。

「緑川さん。大丈夫ですよ。」

たとえ聞こえていなくても、言い聞かせるように、緑川さんに語り掛ける。

それしか、僕にはできない。

 

 

 

 

昔から言い訳が上手だった。

「仕方がない」「嘘も方便」「無理はしたくない」

自分はしたいのだけれど、それを許される環境になかったのだから、僕のせいじゃない。郷には郷に従えとはよく言ったものだ。

 

でも。

何もできないことに慣れてしまうなんて、格好悪い、情けない。

じゃあ、何をしたら今の現状が変わるのか。 

 

僕ができることは、本当に限られている。

プレイルームにお連れしようと、喧嘩の仲裁に入ろうと、リハビリパンツやパットを購入しようと、端坐位にしようと、様々な種類のおやつやジュースを準備しようと…

緑川さんに何か残せているのか、僕にはわからない。

生活に彩を提供できているのか、僕にはわからない。

そうして考えは空っぽになっていく。

 

介護職を始めて2年目。

きれいなエピソードなんてない。

苦悩するばかりで、無能さを感じるばかりの日々。

 

今の現状を変えたい。

「寂しい」を叫ぶ緑川さんのことが、僕はどんどん「好き」になっていく。

だから、きっと、もがき続けていくんだと思う。

考える。力になる。「ここにいて良かった」って思ってもらう。せめて、押し潰される前に新しい行動に移したい。

 

これまで言い訳してきたツケが回ってきたのかもしれない。

今の僕に何ができる…?

そんな自問自答をしながら、今日の休日は過ぎていく。